曼荼羅絵画論

私はあくまで自己表現の場として絵画を位置付けるために、絵画の本質、抽象とは何かを追求しています。なぜ抽象なのか、所で絵画にはいろいろな存在理由があります。内面的感情表現、歴史的記憶、宗教的世界観、時代的価値観、その他、それは視覚表現による存在の実現であり、そしてここに表現の原理である抽象があります。

現代抽象絵画観はキャンパスを「平面」化する運動として開始され、それは19世紀中頃印象派が外光の色彩を色面表現という絵画構成によるキャンパスの平面化が、西洋におけるルネッサンス以降の写実空間から脱した平面的絵画の誕生であり、更に平面化は純粋平面絵画へと行きつく可能性をたどり、絵画空間の位置に革命的変革をもたらしていく。そこでは絵画表現が現実空間を描写するのでなく、現実空間の中に作品を直に置く事、作品を展示場の壁あるいはオブジェとして見るのであり、そしてこの絵画観は20世紀後半アメリカに渡ってその存在を明確にしたのである.

ここでこの新しい絵画観を問う事にしよう。はたして現実の空間の中で作品はどのように存在化させるのか、現代論理学では対象はあくまで直指できる「もの」であり、その存在は対象化した出来事の総体と見るのである。それは何者か「」化の中での存在、つまり伝統的な「ある」と言う絶対的正当性はすでになく、存在とは展開する出来事である範囲で「ある」ことになる。今や「存在」とはすでに既定されたものでなく、まさに生の能動的、創造すべき場なのであり、[ここにこそ画家の表現の世界があり発想の可能が拡がっている]

所で作品とは何か、そこで二極である作品と鑑賞者の関係を考えなければならない。作品を見るとき、常識的には主観と客観の図式で考えるのであるが、はたしてこの図式で正当であろうか。つまり客観とする作品の存在はすでに論理的には「ある」とはいえないかぎり、あくまでもその作品は出来事として何者かなのであり。従ってその対象は価値づけるべき物、主観の観点によって価値づけられる事なのである。

そこで重要なのは「視点」という事であろう。今鑑賞者がある作品を見る時、対象に対して二つの視点が可能である。一つは視点を静止している時、もう一つは対象の周りを巡る動的な視点である。従ってこの二つの視点によって対象は静的には平面となり、動的には立体として見えると言える。

絵画作品はあくまで内面空間の拡がりであり、精神世界の実現化である。原始人は洞窟や岩に線刻を残しつつ、地上に生存の証を残した。そして現代人もなお自然や宇宙にたいして広大な科学的視野を抱き生存し続けている。

19世紀末ホアンカレは数学的に「宇宙はおおむね円であろう」と提言した。いわゆるホアンカレ予想である。この過程でトポロジー、位相幾何学が誕生する。そしてこの幾何学を用いて宇宙のありえる形を分析し、おおむねの形を把握しようと試みるのである。結局宇宙には八個のパターンの形態が絡み合ってこの相互の関係が宇宙を生み出していると解答した。[もちろんこの結論はあくまで数学的であり実証的ではない。]

所で現在私はシステミック・ペインティングの立場にたって造形を試みています。システミックは構造全体の方向性を示すだけで実体を持たない、つまりそれは縄や蔦が本体に絡みついて居るようにそれ自体は寄生的である。そしてこの造形構造は任意に設定できる。 正にその背景である[実体]とは、恐らくは宇宙その者、超多元な空間としか言えない、そして人間界にとつては生の現実に違いないのである。

従って先のホアンカレ予想の「宇宙」に如何に形を与えるかが問題である、現代数学では構造は論理的に閉じたものとして任意に設定できる.仮にその構造が円の集合体であるとしよう。そして「対称性の原理」にもとづく構造を設定する、その構造体は核を取り巻く曼荼羅状に拡がる形式とする。それは多層な円群の構造となり拡がり、更にその円群は全体を一つの大円で統一する。そしてこの大円は実に中心核と同一と言う構造体、多次元的空間構造とする。つまり重層する円群の全体と円群の核である中心が同一という事である。

所でこの構造を、仮にを超弓空間として考えよう、そこでは無数の輪ゴム状の円が空間の構成要素とする。そこで対称性の「破れ」と言う現象でこの構造を求心的に極小の塊になるように捻り押しつぶす。その過程で輪群はお互い非可還に出会い絡みつく。更にこの塊をピックバンの様に膨張させると、ここに非可還構造体が誕生する。そしてこれがシステミック・アートの構造体である。

所で球を形ずける「円」に対するイメージは古来から、神秘的である。古代ギリシャではプラトンは「円」を完全なるものと考えた。中国においても、「円」は天の形、天円地方の原理であった。古代インドの仏教哲学では「円」のイメージは想像を絶する壮大さがある、6世紀から7世紀ごろに完成した仏教宇宙観、「胎臓界」「金剛界」両界曼荼羅がそれである。

この両界曼荼羅は中心に大日如来を取り巻く八体の仏、その外側にまた複数の仏が廻り、更にその外側を取り巻く無数の仏達、こうして輪は次々に重層状に重なり拡がっていく宇宙なのだ。

この仏達はあくまで独立しそれぞれ閉じられた宇宙であり、決してお互いに関係を持たない。しかし全ての仏は大日如来を核として、その元で<一>なのであるから、この世界においてはそれぞれの仏達は全く偶然な相互の出会いで結ばれ並んでいる胎臓界曼荼羅宇宙である。そこに非可換構造がある。

両曼荼羅において、中心的構造と同時に外延的構造も重要であり考えなければならない。つまり大日如来は全ての仏の「中心」一つなのであるから、それは,絶対的同一であり、胎臓界曼荼羅における非可換的偶然とは全く逆の原理。結束する統一の原理、これこそが金剛界曼荼羅なのである。こうして見ると明らかに矛盾した両界曼荼羅、これはいったいなにを意味として理解したらいいのか、ここで再び現代物理学を見てみよう。そこには相対性理論と量子力学の間にも同じ矛盾がある。相対性の宇宙はあくまでも数学的にフラットな構造体であるが、一方素粒子を扱う量子力学はその現象はあくまで統計的で、原子を形づける複数の粒子はそれぞれ気ままに動いていてそこには全く規則性がないのである。

相対性理論と量子力学を統一出来ないか、これが最前線の物理学者の挑戦の対象となった。しかし近年素粒子の統計的定式と数学の素数理論のゼーター関数の周期が近似する事が判明し、数学の難問、素数の正体をかえり見える。更に近年超弓理論の方程式の中に素粒子方程式と相対性理論の方程式が導かれたとシワルツとグリーンが発表し、統一理論の完成への可能性が見えてきた。

曼荼羅世界と現代物理学の宇宙の対比は興味あるものであり、芸術的発想を最高にかもし出してくれるものである。                                                        2014/11/11

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